▼真宗の歴史
安土・桃山時代
1594年(文禄2年) 御厨城落城し、御厨忠前は父子5人大村領川棚川良郷極楽寺に落着した。
1595年(文禄4年) 御厨忠前の摘子忠五郎は大村喜前公に御目見えして、知行70石を戴き、御厨惣右衛門源清と改名し、山道に往し数年奉公に励んだ。
1597年(慶長2年) ●一世 了信
この惣右衛門源清は、かねてから念仏修行すべきと勤められていた肥前多久の顕正寺より、弥陀絵像[此絵像本願寺十二代門跡準如上人裏書アリ]を乞請、我閨に掲げて朝夕礼拝していた。
この頃邪宗禁制とはり村中教化の僧を求めたがなすべき人が無く、この惣右衛門を村中が推挙したので、惣右衛門が僧となり了信と改名した。
以後いよいよ信心に他念なく郷民を教化し、ついに邪宗門の同類を悉く真宗念仏門に帰依させ、門徒その数260余戸となった。
ここで山道の了信坊の知行地に一寺を建立した。
江戸時代
1605年(慶長10年) この頃了信は山道の古町に寺を移した。
1629年(寛永6年) ●二世 了閑
1633年(寛永10年) 西国畿内に大暴風あり、古町の草庵が倒壊したので、古町から川良の福浄寺現地に移転し堂宇を建立した。
1652年(慶安5年) [寺号 福浄寺 木佛御免于時 慶安五壬辰年三月廿日也]とある。
1659年(満治2年) ●三世 郭信
1663年(寛文3年) この頃福浄寺は「益々繁盛して参詣者堂宇に溢れ、称名境内に響きけり」と記されている。
1683年(天和3年) ●四世 智閑
1685年(貞享2年) ●五世 惠階
1700年(元禄13年) この年六月、親鸞聖人及び一如上人絵像免許。
●六世 達素
当代木佛彩色して鮮明となる。後施主ありて、経口一尺二寸の鐘を鋳る。
1718年(享保3年) ●七世 潮元
1730年(享保15年) ●八世 即圓
1740年(元文5年) ●九世 潮湛
1748年(寛延元年) ●十世 圓瑞
1767年(明和4年) 経口二尺一寸の梵鐘を鋳立した。鋳工、大阪の岸本仁右衛門尉藤原吉久。取次大坂在大村屋半四郎。
この代に鐘楼堂を建立し、石垣・石壇を築く。
1774年(安永3年) ●十一世 等海
1780年(安永9年) この年十一月十九日本堂を建立し入佛供養し安置した。
1788年(天明8年) ●十二世 等雲
1802年(享和2年) ●十三世 等麟
1824年(文政7年) ●十四世 恵静
1840年(天保11年) この年本尊彩色鮮明にしたあとあり。
1854年(安政元年) ●十五世 瑞雲
1861年(文久元年) 鐘楼堂再建本堂補修。平成14年4月鐘楼堂再建のため解体したところ、棟木の細抜(ほそぬき)に「文久元年建立大工小音琴郷仁蔵」と墨書きあり
1868年(慶應4年) ●十六世 得忍
1880年(明治13年) 「因ニ記ス得忍齢廿有六当寺住職、夫ヨリ三十有五歳之此ニ至リ時ナル哉聞法ノ人日ニ月ニ増加シ元六間四面ノ本堂、現存ストイヘドモ、布教ノ日ハ参集人堂外ニ溢レ庫裡ニ満チ教導ニ洩ルル者多キヲ遺憾トシ、当寺ノ門徒総代、岩屋郷森山清九郎、川良郷原惣右衛門其外ノ世話方猶又総門徒中奮励協議シ終ニ明治十三(1880)年土木ヲ起シ翌十四年奥行十一間餘横八間之本堂ヲ建立落成ス」
●十七世 徳成
1894年(明治27年) 以信会結成される。
1899年(明治32年) 門主、現如上人より以信会に御消息下附される。
1905年(明治38年) 須弥壇、宮殿新調。
1910年(明治43年) 客殿・庭園造営
1926年(大正15年) ●十八世 義曄
1942年(昭和17年) 大東亜戦争激戦となり梵鐘供出。
1946年(昭和21年) 福浄寺仏教青年会(略称:仏青)結成
1947年(昭和22年) 梵鐘鋳造、鐘引き供養盛大に行われる。
1948年(昭和23年) 幼児保育事業を始める
1954年(昭和29年) 「みのり幼稚園」開設
1962年(昭和37年) 幼稚園を合併して「みのり保育園」開設
1962年(昭和37年) 宗祖七百回御遠忌法要勤修
1963年(昭和38年) ●十九世 淳心
1971年(昭和46年) 納骨堂落成
1973年(昭和48年) 学校法人「みのり幼稚園」設立
1977年(昭和54年) 社会福祉法人「川棚みのり保育園」設立
1989年(平成元年) 門徒会館庫裡改築
1993年(平成5年) ●二十世 昭壽
1995年(平成7年) 八月、全戦没者追弔法要勤修
1997年(平成9年) 御本尊新調(京都大仏師、江里康慧師作)本山より免許。
内陣・宮殿須弥壇修復。
みのり幼稚園園舎改築。
1999年(平成11年) 五月、蓮如上人五百回御遠忌法要勤修
2002年(平成14年) 十一月十九日鐘楼堂再建
施工請負、福岡県太宰府市 (有)大浦社寺建築社
2003年(平成15年) 福浄寺開基四百年記念法要
鐘楼堂落成法要
五月九日より十一日まで三日間厳修する

            ▲福浄寺の沿革

釈尊七高僧親鸞蓮如清沢満之
 浄土真宗の宗祖は親鸞聖人です。聖人は他力念仏の信心を自らがいただき、その感動を書物「教行信証」に書き残したお方で、今までになかった法を説かれたとか、我こそが宗祖である、と仰ったことは一度もありません。蓮如上人の御文には「しんらんめずらしき法をもひろめず、如来の教法を我も信じ、ひとにおしえきかしむるばかりなり。」とあるように、師より賜った如来の教法を信じて、皆に教え伝える事が自分の役目であると表し、聖人自身からは「我こそは宗祖である」とは決して仰ってはいません。
聖人はおそらく「私も救われた教えにどうぞ一緒に耳を傾けましょう。そしてこの世に生まれた意義と生きる喜びをどうぞ見つけて下さい」と言われるのです。
 真宗の歴史は親鸞聖人の歴史にとどまらず、遠くはインド・中国の仏教の伝承の歴史でもあります。
そこで、念仏の歴史の重要な人物、または繋がりなどを訪ねてみましょう。

釈尊(しゃくそん)  ----- 紀元前463〜384 -----

 お釈迦様は現在の北インド、ネパールとの国境近くにあったカピラヴァストゥを城とする釈迦族の太子として誕生されたと伝えられる。太子の名は(ゴータマ・シッダールタ)と名付けられた。誕生の意味については様々な伝説が後に生まれ、物語となっている。
 母マーヤー夫人がルンビーニーの園にて無優樹の枝に右手をかけたとのとき右脇から生まれ、誕生した太子は七歩あゆみ「天上天下唯我独尊」と言葉を発した。天からは甘露の雨が降り注いだと伝説にはある。
お釈迦様の誕生は日本では4月8日と伝えられている。
 何不自由ない生活をしていた太子だったが29歳の時に出家、悟りを得るために修行の旅に出られた。たくさんの修行、苦行の後、35歳にして悟りを得られる。悟りを得ることを「成道」と言い、お釈迦様が悟りを得られた日、12月8日を成道会として法座が開かれる寺院もある。仏陀とは「目覚めた人・気付いた人」という意味でこの後から「釈迦牟尼仏陀」(シャカムニ・ブッダ)と呼ばれ、また「釈尊」(釈迦族の尊者)と呼ぶのである。
 それから45年の間、伝道教化生活をおくり80年の生涯を閉じられるのだが最後の遺言として有名な言葉が「自らを灯とし、法を灯とせよ、他に依ること無かれ」である。又、釈尊の臨終の姿を「死」と言わず、「涅槃・入滅」と言う。涅槃は火が吹き消された、完全に燃え尽きたと言う意味から、心の炎・煩悩の炎が完全に燃え尽きたことを意味し、「死」という言葉だけでは語れない深い内容を語られたのであろう。
 釈尊の死後、その教えは弟子達によって記憶され、伝えられていた。しかし伝えられている中でそれぞれに違いが生じたため、長老比丘500人が集まり第一回目の「結集」が行われた。結集とはお互いに記憶しているお釈迦様の教えを言い合い、それを整理し再び記憶し直すと言う会合である。
 その後仏教は北伝・南伝と二つに別れ、私達は北伝仏教、大乗仏教に触れて行く。
 

七高僧

 親鸞聖人が高僧と仰がれる念仏者は本当は七人ではおさまりきれないであろう。その中でも仏陀釈尊の教えに正しく信順し本願念仏のみ教えを明らかにされた大師七人を浄土真宗の宗師、高僧と選ばれた。
それが、印度では「龍樹」・「天親」、中国では「曇鸞」・「道綽」・「善導」、日本では「源信」・「源空(法然)」の七人である。
七祖を選ばれた理由としていくつか上げられる。
一つは、真実の浄土の教えを記した書物が残っており、実際に広く世間で読まれていることが上げられる。
又、それぞれの高僧が仏陀の真意、正意を明らかにされ、今までに無かった正しい了解を示されている事も高僧として選ばれた理由でもある。そして「本願信じ、念仏申す」ということにおいて七祖は一貫しているということである。
親鸞聖人の仰がれた七高僧は同時に、私一人一人の七高僧でもある。七高僧の歩みを学ぶ事は、念仏の歴史を学ぶと言う意味も、持つのであろう。

龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ - 印度名:ナーガルジュナ) 二、三世紀頃
  書: 「十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)」 「中論」 「大智度論(だいちどろん)」

釈尊の「楞伽経(りょうがきょう)」には釈尊滅後七百年に南天竺に龍樹という比丘が現れ、よく有無の見を破り、大乗無上の法を説き表し、歓喜地を証し得て、安楽国に往生する、と説かれてある。
その龍樹菩薩は、有無の見(固定的な観念)を破る「中道」という精神が仏教の精神であると説かれ、又、仏道に難行と易行との二つがあり、それは「あたかも旅をするに陸路を自らの足で歩んで行く方法と、海路を船に乗って進んで行く方法とがあるようなものである」と易行の一道を勧め明らかにされる。易行とは阿弥陀仏を讃嘆する道であり、念仏の道でもある。そこに親鸞聖人は真実教を表したものと見て龍樹菩薩が真宗の祖師であるとするのである。

天親菩薩(てんじんぼさつ - 印度名:バスバンドウ) 四、五世紀頃
  書:「阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)」 「浄土論」

北西印度のガンダーラ地方のバラモンの家に生まれた。兄、無著と共に出家し小乗の学びをしていたが後に大乗の教えに帰した兄にさとされ、天親も同じく大乗に帰していった。
代表的な書「浄土論」では「仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし、能く速やかに功徳の大法海を満足せしむ」と如来の本願力に遇う以外に、人生の苦しみや悲しみを超える道は無いことを顕わしているのである。

曇鸞大師(どんらんだいし)(中国) 476〜542
  書:「浄土論註」 「讃阿弥陀仏偈(さんあみだぶつげ)」

15歳の時に出家。若いときから「四論」を研究し、その後「大集経」というお経の註釈中に病にかかり療養に臥していたが、大集経という膨大なお経の註釈を書くにはまず長生不死の術を身につけないと出来ないと感じ、陶弘景という仙術師の元へ行くのである。曇鸞大師51歳の時である。熱心に術を学び体得した曇鸞は意気揚々と帰る途中で菩提流支三蔵と出遇う。その時曇鸞は仏教の中に長生不死の法を説くお経はあるのかと問うと、三蔵は厳しく怒り、観無量寿経こそが長生不死の経であると観無量寿経を授け、曇鸞はその場で仙経を焼き捨てたと言う話がある。そして浄土の教えに二種の回向の信を明らかにされるのである。

道綽禅師(どうしゃくぜんじ)(中国) 562〜645
  書:「安楽集」

道綽は14歳で出家し「涅槃経」の研究に力を注いだが、48歳の時たまたま曇鸞の碑文を読み、深く浄土の教えに帰依していった。その後「安楽集」を著し、その中でこの世を「末法濁世」と示しつつ、自力の教えを聖道門、他力の教えを浄土門と分け、濁りきったこの世では浄土の教えこそが唯一救われる道であると説いた。又、その実践行として専修念仏を進め、念仏行による救済を証明された。

善導大師(ぜんどうだいし)(中国) 613〜681
  書:「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」4巻 「法事讃(ほうじさん)」
    「往生礼讃(おうじょうらいさん)」

若くして出家し「法華経」を学んでいたが道綽禅師と出遇い「観無量寿経」の講義を聞き、それからは自ら浄土の教えを説き教化につとめた。
善導大師の大きな仕事としてあるのが「観経」に註釈を付けた「観経疏」を世に出されたことであろう。それは観経の見方をくつがえす了解で、観経こそ凡夫往生の道であり、その私達に称名念仏をお勧めされることを説き表すお経であると了解したのである。

源信和尚(げんしんかしょう)(日本) 942〜1017
  書:「往生要集」

若年から仏教教学に優れた才能を表した源信は、15歳の時に宮中において法華八講の講師を任されるほど教学の教えに深く精通した方であった。しかし母親はその源信の名利の心の芽生えにお叱りの厳しい手紙を送り、母の願いを感じた源信は名利の心を絶ち、一心に真の仏道を歩んだと伝えられている。
著書「往生要集」では極重悪人の存在に目覚め念仏する中で救いの道が開かれ、悪人である私の身は常に大悲の光に照らされ続けられているとの実感を表明された。

げんくうしょうにん(げんくうしょうにん)=法然(ほうねん)上人(日本) 1133〜1212
  書:「選択本願念仏集」

源空上人上人が幼少の頃、父が政治的な恨みを受け、殺害されるという事件があった。しかし父は決して仇討ちをしてはいけない「怨親平等の世界を求めよ」と法然に告げる。この事件が縁となって出家したと伝えられる。こうして法然上人は比叡山に登り天台教学を学んだが、長い就学のあと善導大師の言葉に出遇い、「唯、念仏」の信心を戴いたのである。43歳の時であった。
それからは吉水の草庵において専修念仏の教えを説き広め、それにより多くの僧や民衆が参集した。その中に親鸞聖人も直参しているのである。しかし後に念仏宗は弾圧を受け、法然上人は四国の土佐へ流罪、五年後帰京したが間もなく入寂されたのである。

親鸞聖人(しんらんしょうにん)(日本) 1173〜1262
   書:「経行信証」 他

親鸞聖人 1173年、京都の南方、日野の地に生まれる。父は日野の地に領地を持つ日野有範、母は源氏の流れをくむ吉光女であったと伝えられているが正確なことは何も分かっていない。その時代は飢餓や疫病のため京の都には死者が溢れ、何時いのち終わってもおかしくない、常に死の不安が横切るような時代でもあった。9歳の時に慈円のもとで得度をし出家をする。
9歳から29歳までの間、比叡の山において出家、修行の生活をおくられる。比叡山では堂僧という常行三昧堂で不断念仏の修行に励んでいたが、ついに29歳の時、山を下り六角堂での百日の参籠を決意。そのあかつきに夢告において法然上人のもとへ参る事を決心されるのである。
 法然上人を尋ねた親鸞聖人は「念仏して、仏陀にたすけられまいらすべし」の言葉に出遇った。この出遇いの感動を「建仁辛の酉の歴、雑行を棄て本願に帰す」と著し、今後の親鸞聖人の生き方を決定づけて行くような出遇いとなったのである。法然門下として歩まれる親鸞聖人の日々は決して平穏な生活ではなかった。旧仏教界からの念仏の法難が起こってくるのである。時に聖人35歳、承元の法難において法然上人と共に僧籍を剥奪され流罪(法然上人は土佐、親鸞聖人は越後)になったのである。
 流罪の生活はこれからの親鸞聖人の教学に大きな影響を及ぼすような生活であったと思う。「いなかのひとびと」と言われる人の中に、人間のいのちのたくましさ、やさしさ、みにくさ、かなしさを知らされたのであろう。そして「一切衆生」の意味を体でもって感じられたのではないだろうか。
 北陸の生活の後やがて42歳の時に、妻子と共に関東へ旅立たれる。おそらくこの地で「経行信証」の草稿本を完成されたのであろう。60歳をこえたある年、京に戻られる。おそらく「経行信証」を完成させるためであろう。
 京に戻った親鸞聖人は関東の門徒からの仕送りを頼って生活をし著作の製作に力を注いだ。現存している親鸞聖人の著書のほとんどはこの時代の作である。
 1262年聖人90歳、11月頃から病に臥し11月28日、生涯を終えられた。その命終を御伝鈔には「口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし。云々」と著され称名念仏の中に命終されたと記されてある。

蓮如上人蓮如上人(れんにょしょうにん)(日本) 1415〜1499
  書:「御文」 「正信偈大意」

 本願寺の八世の留守職であり、真宗再興の人と呼ばれるお方である。親鸞聖人の滅後、衰退の道をたどる本願寺を再興し、聖人の教えを諸国の民衆に教化し、現代の教団の基礎を作られた人である。
 教化方法として「御文」を作成し参拝の門徒に読み聞かせ、各地の寺や門徒にお手紙として送り伝えた。又、親鸞聖人の正信偈、和讃を勤行に定め、みなでつとめ唱和する今の同朋唱和の形を作られたのも蓮如上人の大きなお仕事である。

(きよざわまんし)(日本) 1863〜1903
  書:「絶対他力の大道」 「我が信念」

清沢満之 名古屋の黒門町にて下級士族の長男として生まれる。幼少の頃から成績は優秀で常に上位であったと言われる。16歳の時に学問を続けるために大谷派の僧侶となり、時代のエリートとして学問の道に進むが肺結核にかかり41歳の若さで命終される。清沢師の大きな仕事として親鸞聖人の言葉を綴る「歎異抄」を世に知らせた事である。又、清沢師は浩々洞という聞法の会を結成、その中で多くの念仏者を輩出してこられた。名をあげれば暁鳥 敏・佐々木 月樵・多田 鼎・曾我 量深・金子大栄という方々を生み出してきたのである。
 清沢師は江戸期から明治期にかけての、仏教復興、親鸞復興の先駆けの人でもあり、近代において親鸞聖人の信心を新しい表現で自分自身の信念として表明下さった人である。